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2016年09月号

vol. 114

ポータルサイトの原型は大阪とちゃいますか…

~人やモノや情報の集まるところにビジネスあり。この原理を「大阪は天下の台所」で解き明かそう~

ある方と「お年寄り向けポータルサイトを作ろう」と飲みながら熱く語っていたときだ。
「ポータルサイトの原型は大阪とちゃいますか…」というヘンな袋小路に入ってしまった。
私もその方も大阪出身。このパロディがやけに盛り上がったのは言うまでもない。

そもそもポータルサイトとは、インターネットの入口となる集合場所のようなトコだが、
そんな単なる集合場所が、そもそも「なんで儲かるのか?」という説明は意外に難しい。
だが、ポータルサイトには、必ず、何らかのビジネスネタが埋まっていると言い切る経営者は多く、
人やモノや情報が、とにかく集積さえすれば、ただそれだけで「付加価値は増す」と言い切る識者も多い。
今回は、そのポータルサイトが「それって大阪が発祥でっせ」というパロディをお届けしよう。

まず、私が大阪生まれの大阪育ちだからというワケではないのだが、
自身、昔から、大阪が「天下の台所」と言われてきているのが、どうにもコソばゆかった。
今も昔も、大都市の東京を差しおいて、このチンケな大阪が、経済の中心であるワケがないと確信をしていた。
だが、そのカラクリを知ったとき、「なるほど、大阪は『天下の台所』になるべくしてなったのだ」と思い知ることになる。
そして、この「天下の台所」こそが、大阪が「日本初のポータルサイト」と定義付けできる所以なのである。
ではそのカラクリをご披露しよう。以下「大阪」を旧式に「大坂」と書いてみる。

日本人なら誰でも、日本史の授業で「大坂は天下の台所」と習ったはずだ。
だが、江戸時代、すでに100万都市の「メトロポリス江戸」の地より遥か遠く、
なぜ大坂に、全国諸藩の「蔵」が据えられ、日本中から、わざわざあまたの物産が集められ、
なぜその大坂から、わざわざ大消費地である江戸に、その物産を運び送る必要があったのだろうか。
「秀吉がそれをしたから」と言ってしまえば簡単だが、なぜそうなったのかを掘り下げてみよう。

まず間違いなく、全国各地から、江戸に直接、物産を運んだ方が効率がいいに決っている。
現代なら、間違いなくそうするはずだ。なのに、なぜ大坂に集められたか?
そこには、江戸時代の主食の「米」が、ナゾを解くカギとなっていた。
その「米」を、まず大坂に集められなければならなかった「絶妙の事情」が存在したワケだ。
これこそが、大坂が、日本初のポータルサイトに任命されたそもそもの所以なのだ。

当時、日本では、武士階級への給金でもあり、経済規模の単位でもあった「米」は、
どの物産より重要視されいたことに異存はないだろう。
そして、その「米」の主要な収穫地となっていたのは、現代と同じく、日本海側に圧倒的である。
今の県名で言うなら、秋田県、山形県、新潟県、富山県、石川県、福井県などがその代表格だが、
そのおびただしい「米」を、さて、どうやって江戸まで運ぶのだろうか。カギはそこにある。

この「米」、人力で陸路を運ぼうものなら、馬一頭にようやく二俵が乗せられる。
馬には曳手が一人付き、予備の馬にも馬喰が付き、馬の飼葉の運び手も加わり、
いったい「米」の運搬に、どれだけの人手がかかるだろう。
そして日本海側からだと、どのルートを通っても、標高の高い山をいくつも越えていかなければ江戸にはたどり着けない。
山岳国家であり、悪路の多いこの時代の日本において、陸路で「米」を運ぶという行為は、
とんでもない労力と費用と日数が必要だったのである。そこで「水運」となる。

日本の分水嶺より西側、つまり日本海側に流れる川がある地域からはすべて、
「米」は船で川伝いに河口まで下り、藩の玄関港まで運ばれ、そこから大型船に乗せ替えて「海路」をゆくルートとなる。
例えば山形県なら、「米」は最上川の支流までは馬で運ばれ、そこから最上川の河口の酒田港までは「川路」をゆく。
そこから大坂に向かう大型船に乗せ替え、船は日本海を西に進み、関門海峡をグルリと廻り、瀬戸内海を東に大坂までゆく。
このルートなら、どれほど山深い土地で取れた「米」も、最上川の支流まで運びさえすれば、あとはすべてが「船旅」だ。
船が、この重い重い「米俵」を運んでくれたのである。

ちなみに、東北の太平洋側の宮城県、福島県からは、船で太平洋航路で江戸に真っ直ぐ運ばれた。
だが、東北の日本海側からは、青森の北、津軽海峡を回るルートは、あまりにも海流が速く、気候も荒く、
航海術が発達する明治期までは、津軽海峡ルートは危なくて通れなかったのだそうだ。
一方の日本海ルートは、蝦夷(北海道)から昆布を運ぶ「北前船」の歴史も古く、途中の寄港地も多く安全だったのだ。

ではなぜ、一旦「米」は、大坂に留め置かれたのだろうか。
山形から日本海を西に進み、関門海峡をくぐり、瀬戸内海を東に進むなら、そのまま紀伊半島を回り、
江戸の地まで、ノンストップで船を走らせれば、さらに効率的ではなかったか。
だが、それを解き明かす次のカギとなるのは、
「米」と並び、いち早く食文化の花咲く、江戸の庶民の口端を喜ばせる「清酒」の存在だった。

メトロポリス江戸の地は、硬水の地であり、酒造りには向いていない。
一方、軟水の湧き出る灘と伏見を持つ近畿は、古くから酒造りの発祥だった。
この「酒樽」を運ぶ「樽廻船」が、大坂から江戸へ、すでに海運の航路を発達させており、
その「超大型の樽廻船」が「酒」と「米」を積み、大坂から江戸に向かったのである。

これは現代の輸送術と似ている。小型車が一旦どこかに集積し、そこで大型車に荷を乗せ替える運輸術だ。
この高い運輸効率を生むため、大坂こそが、その集積地(ポータルサイト)として最適だったのである。
ちなみに江戸は「米」と「酒」以外の産物は、自前でそれを調達をした。「魚」と「野菜」がそれである。
腐りやすい「魚」と「野菜」の収穫地は、江戸の近郊でなければならなかった。

ちなみに江戸でも、東京湾からは運河をたどり、江戸城内の蔵まで、船が遡上できる水路が発達していた。
つまり、山形県の山奥の最上川の支流から、はるか遠く、江戸のお城の蔵の真ん前まで、
すべてが「水路」でつながっていたことになる。これはスゴイことだ。

以上。これが大坂が「天下の台所」となり得た「奇跡の所以」である。
大坂は、この集積地としてのメリットを、まさに最大限に享受した稀有な都市となり、
一時期、大坂は江戸の人口をも超え、日本経済の最大の中心地となったのである。

「米」の集積地となった大坂には次々と造船業が興り、金融業が興り、人々が日本中から集まってきた。
人が集まれば、そこに他の多くの産業もどんどん興ってゆく。そしてまた人を呼び、また産業が興ってゆく。
この好循環は、鉄道網が整備される大正期まで続くのだが、
この経済発展の余韻は、現代に至るまで、大阪が日本第2の都市として存する大きな理由となった。

世界を見たとき、こういった「集積地(ポータル)メリット」を享受した繁栄地は実に多い。
欧州の租界地となった中国上海は、世界各地からの、すべての人や物産や文化に至る集積地となる。
イスタンブールはシルクロードの基点となり、欧州と東洋を結ぶ大陸の集積地となる。
現代の韓国の仁川空港やシンガポールのチャンギ空港は、世界一のハブ空港であり、空を行く人々の集積地となる。
これらの都市は、すべて例外なく、世界経済の中心地に成り上がっていく。

ポータルサイトという考え方が生まれたのは、たかが20年も前のことなのだが、
その原型が、なんと、400年前の大阪にあったとは、これがパロディであったとしても、なんとステキなことだろう。
今、地盤沈下に苦しむこの大阪経済に、再び、光が指す日も来るかもしれない。

そして私とその方は「大阪を再びポータルサイトに!」と酔いに任せて気炎を上げたのだが、
私とその方がたどりついた答えは、やはり「ジジィとババァのポータルサイト」になってしまった。
そりゃそうだ。今さら「地理的優位の集積地」などつまらない。大阪人はやはりオモロい方に流されていく。

ただし、そんな「ジジィとババァのポータルサイト」が、陽の目を見るハズもない。
だが大阪には、「日本一オモロいジジィとババァ」が集積しているのも間違いない。
私もその方も、間もなくその一味となる予定だ。

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