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2017年12月号

vol. 129

幸せ保存の法則(1)-第一法則と第二法則

~「幸せ」とはいったい何なのか。若き日に仲間と議論の末にたどりついた唯一無二の法則~

「幸せな日々の連続くらい耐えがたいものはない」とはゲーテの言葉である。
「幸せ」自体が耐えがたいモノではないはずだとしたら、この言葉は何を言おうとしているのか。
誰もが一度は考えるこの「幸せ」について、我々はある法則にたどりついた。

大学時代、誰でもがそうであるように、私も、青春のテーゼのごとく「幸せとは何か」を友人らと論じていた。
悪友の下宿が、毎夜毎夜のたむろの場所だ。数日も家に帰らず、酒を浴びながら、議論に耽るのだ。
そしてある日、我々は、空々漠々たる論議の末に、ついに「幸せの正体」をつきとめたのである。
我々はひどく興奮していた。あのゲーテの「命題」が解けたのである。興奮を隠す理由などまったくなかった。
我々は、そのつきとめた法則を、「幸せ保存の法則」と名付けた。

そう。お察しの通り、この「幸せ保存の法則」というネーミングは、物理学のあの「熱量保存の法則」のパロディだ。
そして「熱量保存の法則」と同様、「幸せ保存の法則」も「第一法則」と「第二法則」で出来上がっている。
では詳しく解説して行こう。
まず、第一法則は、「自分を含む、ある閉じられたグループ内での『幸せの量』は一定である」だ。
そして第二法則は、「人生の『幸せの量』は、すべての人において同じ量であり、なおかつそれはゼロである」だ。

まず第一法則だ。ここでは極めて重要な大前提がある。「幸せ」とは『絶対値』ではなく『比較値』であるということだ。
例えば、今、自分が1億円を持っているだけで「幸せ」と感じるものではない。
もし周りの仲間がみんな、5億円ほども持っていたら、1億しか持たない自分は、それほどの「幸せ」を感じないはずだ。
だが逆に、仲間がみんな、貯金もなく「老後が不安」と嘆いていれば、1億円を持つ自分は、密かな「幸せ」を感じるはずだ。
つまり「幸せ」という感情は、必ず誰かと比較をした上で、生じるようになっているのだ。

「閉ざされたグループ」と言うのは、自分が属する、日常の「大小の社会」を言う。
例えば、会社の同僚、仲良し4人組、同じ野球部の仲間、ママ友グループ、クラスメイト、高校時代の同窓生などなどだ。
グループのメンバーは、自分と同じ属性を有する人たちであり、人は誰しも、複数のグループに属している。

この法則では、グループ内での「幸せの量」は一定だと謳っており、
誰かが「幸せ」なら、誰かが「不幸」となっており、常にグループ内の「幸せ」の量は、均衡が保たれているという決まりである。
つまり、自分が「幸せ」を感じるときとは、そのグループ内の誰かが「不幸」になったことを知ったときに他ならない。

例えば「ママ友のグループ」で考えてみよう。
昨日まで元気だったママ友の子供が、突然、難病に罹ったと聞いたとき、むろん気の毒だとも感じ、その友人を励ましもするが、
「ああ、自分の子は健康で良かった」と、そこで初めて、それまで思いもしなかった「幸せ」を感じるのである。
不思議な感情の生まれ方だと思う。自分の心に芽生える「幸せ」という感情は、誰かの「不幸」によって生まれてきた感情なのだ。

例えば、仲良し4人組の中の1人の親友が、彼氏にフラれたと聞いたとしよう。
恋人のいない自分は、その彼女を羨望の目で眺めていたのだが、その彼女が突如フラれ、今、目の前で泣き崩れている。
同情を感じる一方で、自分は、何かしら説明のしにくい「幸せ」を感じている。それは彼女の「不幸」を感じ取ったからなのだ。
要は「幸せ」とは、同じ境遇レベルにある誰かと比較し、その瞬間の幸せの優劣を決定して得る、特殊な「感情」なのである。

ではここで一つ、驚くべき演繹的な考えに気付くだろう。
つまり、自分が「幸せ」になるためには、同じグループ内の誰かを、そう、「不幸」に陥れればいいのである。
例えば、同期入社の4人のうち、誰か1人だけ「役員」になれるチャンスが訪れたとき、
何らかの方法で自分以外の3人を蹴落とし、そして自分が役員に選ばれれば、自分は密かな「幸せ」を噛み締めるはずだ。
何とも不徳な人間心理ではあるが、「幸せ保存の法則の第一法則」は、こうして成立しているのである。

ところで、この第一法則には大事な「ミソ」がある。この法則では、幸せの比較対象は、何も自分以外の「他人」とは限らない。
むしろ、自分が「幸せ」かどうかを比較する対象は、グループ内の他人より、まずは「過去の自分」であることが多い。
簡単に言えば、過去の自分も「比較をする他人の一人」となるのだ。

「ああ昔、こんな辛いことがあったなぁ」と振り返り、今の自分がいかに「幸せ」かと思うのは、誰にでもある経験だろう。
逆もある。「昔は何にも悩みなどなかったのに、今はどうして…」と落ち込むなら、それは今が「不幸」だと感じるていときだ。
人は長い人生の中で、何度も何度も「過去の自分」と「今の自分」を比較し、「幸せ」を計っているのである。

さあ、次に第二法則だ。まずグラフを見て欲しい。縦軸は「幸せの量」で、横軸は「時間軸」だ。
曲線が上向き、つまり「プラス」のとき、人は「幸せ」であり、マイナスなら「不幸」のときだ。
人生はこのように山あり谷ありで、このグラフの通り、人は皆、幸不幸を行ったり来たりしている。
そして「幸せ保存の法則の第二法則」で、我々がつきとめた結論は、長い長い人生において、
上向きのプラスの量と、下向きのマイナスの量の「積分値はゼロである」と定義したのである。

実はこの「第二法則」には何らの根拠はない。つまりこの法則は単なる「仮説」に過ぎない。
だが、物理学の多くが、仮説→立証というプロセスをもって「法則」を作るモノだとすれば、
この仮説を考え出した我々全員が、それを「人生をかけて証明しよう」となったのだ。自らが実験台だ。
我々全員が、自分の臨終の瞬間、人生の幸せの量を積分し、「ああ、幸せの量はプラマイゼロだった」と証言すれば法則は成立だ。
この壮大な実験の立会人は、それぞれの家族とし、その臨終の言葉を、生き残った仲間たちに伝える、と決めたのである。

どうだろう。これを読む諸兄は、この「第二法則」を、バカバカしいと思うだろうか。
例えばこんな疑問が出た。「生まれてすぐに死んだ子はどうなるんだ?」と。答えはこうだ。
生まれてすぐに死んだなら、その子は幸せも不幸せも感じていない。つまりグラフに上下の振れは無く、やはり積分値はゼロとなる。
「じゃあ、アフリカ難民で、10日も何も食べられないような子は、人生ずっと不幸じゃないのか?」との疑問が出た。答えはこうだ。
その子がたまに、難民支援隊から僅かな食べ物をもらうとしたら、それはその子にとって、日々の不幸をカキ消すほどの幸せなのだ。

「幸せ」とは他人が決めることではなく、本人の主観でのみ決めることであり、我々が「難民=不幸」と決めるのは間違いだ。
お腹を空かせた難民の子の不幸は、たった一切れのパンで、幸せの積分値は、ドーンと簡単にプラスに転じてしまうかもしれない。
我々が「え?たった一切れのパンで?」と思うこと自体が、何とも傲慢な思い上がりなのだろう。

さてここでも、この「第二法則」がもたらす演繹的な副産物が誕生をした。余談として紹介しよう。
もし人は死ぬ瞬間、幸せ量の積分値がゼロであるならば、逐一、今現在の積分値が分かれば、自分の「死期」が分かるのである。
グラフを眺めれば分かるのだが、実は、積分値がゼロになるタイミングは、長い人生の中で、幾度も幾度も登場する。
これは面白い発見だった。だが実際、「今の積分値」を求めてはならない気もする。「死期」こそは、神のみぞ知る領域なのだろう。
さらに余談をもう一つ。これも面白い副産物だった。
このグラフのどの時点でも「微分」をし、その「微分値」がプラスなら「幸せ」、マイナスなら「不幸せ」を感じている瞬間なのだ。

さあ、いかがだろうか。この「幸せ保存の法則の第一法則と第二法則」を、これを読む諸兄に果たして信じてくれるだろうか。
第一法則は、「その通り」と膝を打ってくれる方も多そうだ。
ただし、他人を蹴落としてまで、自分が「幸せ」になろうとすることの善悪は、ここは皆さんの信条にお任せをしたい。
私自身は、会社を切り盛りしている身。ならば当然、他人を蹴落とさねばならない宿命にあるのだと思っている。
ビジネスは実は、この「第一法則」のルツボのようなモノだろう。果たして私は日々、他社の不幸だけを祈りながら生きている。

そして第二法則だが、この法則を作った全員が、今でもこれを「自らの人生の規範」として今を生きていると言っても過言ではない。
事実、我々全員、この「第二法則」に拠って「幸せ」を追い求めている。
となれば、これはパロディなんかではないのだ。結構本気なのだ。
そしてこの第二法則を議論する最中に、同時に、ある驚くべき「理論」が作られた。
実は我々は、その驚くべき「理論」によって、この「第二法則」を立証しようとしている。たった一度きりの人生を使ってだ。
次回の後半では、我々が行き着いた、その驚くべき「理論」を紹介したい。我々は、その理論を『卒業理論』と呼んでいる。

最後に余談の余談を。実はこれら法則を生み出した仲間のウチ、1人はすでに鬼籍に入ってしまっている。
彼が臨終のとき「どうだった?」とはさすがに聞けなかったが、もしあの世があるなら、そこでまた酒を飲みながら聞いてみたい。
「どうだった?幸せの積分値は?」と。
私も、なぜ今の会社を興したのか、それが「卒業理論」の拠るものだと、彼にあの世で話すのが何よりの楽しみである。

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