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2018年04月号

vol. 133

ウィンストン・チャーチルの「個性」

~もし第二次大戦のとき、チャーチルの「個性」が無かったら世界地図は変わっていただろう~

人を成功に導くのは、他のどんな能力よりも、まず「個性」ではないかと私は思っている。
これまで、人類が作ってきた成功の歴史は、それは「個性」が作り上げた成果だと言ってもいい。
そんな典型が、あのウィンストン・チャーチルだろう。

「天の配剤」という言葉がある。
神様は、人それぞれには、資質や能力や機会を均等に配するものだという言葉であるが、
天は、この世がうまく収まるよう、適材適所に「配役」をするものだという意味にも使われる。

私が思う「天の配剤」たる名キャスティングは、まずは「坂本龍馬」を第一に揚げるのだが、
もう一人、この男がいなかったら、今の世界地図が大きく変わっていたと思う男がいる。
それが、英国第61代首相、ウィンストン・チャーチルである。

私は、自らビジネスをするうち、つくづくとビジネスは「人だ」と思い知らされることがある。
そして、その人がもたらす功績のうち、その「一番の武器」となるのは、つくづく「個性」だと気付かされるのである。
「個性」の有益性は、立場をも、知識をも、知恵をも、経験をも、学習をも上回る。
それをまさしく証明した男を、ここでご紹介したい。

ウィンストン・チャーチルは、いわゆる画策好きの政治家の典型で、およそ「黒幕」といった言葉が似合う政治家だろう。
彼の経歴を丁寧に書いていくと、いくらページがあっても足りなくなるので、
ここでは、ごくごく簡単に、チャーチルの経歴について書いていくことにしよう。

チャーチルは1874年、日本で言えば明治7年、英国オックスフォードシャーにて生まれる。
父は公爵で、母はアメリカ人投機家の大富豪。チャーチルはその長男として名門の子息として育つ。
父のランドルフ・チャーチル卿は、英国の「公爵」の中でも4番目の地位。日本で言うなら摂関家の「一条家」のような家柄だ。
チャーチルは幼い頃から「大の戦争好き」で、幼い頃から一人で「戦線布陣」を考えたり「模擬戦争」を好む少年だったらしい。

また、類まれなる文才の持ち主で(1953年にノーベル文学賞も受賞している)、その才能を生かし、
陸軍士官学校を卒業した後は、数多くの戦争に従軍し、
英国ならではの帝国主義戦争の多くに「従軍記者」として参加し、その秀逸な「従軍記」で大いに名声を高めることになる。
そしてその勢いを借り、26歳の年に、保守党下院議員として政治家の第一歩を踏み出すことになる。

その後チャーチルは、植民相次官、商業相、内務相、そして陸海軍大臣という輝かしい要職を歴任し、
第一次大戦では、海軍力の増強を試み、対ドイツに備えての空軍の育成にも力を入れるなど、軍への功績は特に目覚しかった。
だが、そのチャーチルの政治生命はそこまでだった。
ある大きな作戦の失敗をきっかけに、一気に国内からの支持を失い、そこで失脚し、政治の第一線から退くことになる。
一度は蔵相として返り咲くも、常に好戦的で議会の和を乱しがちなチャーチルは次第に孤立し、政治の世界から消えていった。

チャーチルの父、ランドルフが政治生命を絶たれたのも、若き37歳だったことを考えると、
40歳を迎えていたチャーチルは、わずかに父の年齢をも上回っており、おかしな充足感も芽生えてもいた。
事実、彼の情熱はすでに衰え、彼でなくても、他の政治家でも、この歳なら「もうここまで」とも思ったはずだ。
55歳からは、別荘にこもり、水彩画を楽しみながら余生を送るようにもなっていた。

だが、チャーチルが60歳を過ぎたとき、これぞ「天の配剤」か、彼をもう一度「檜舞台」に引っ張り出す事態が巡ってくるのだ。
なぜ、この老人となったチャーチルが、再び脚光を浴びたのだろうか。すでに60歳だ。
答えはいたって単純なのである。
チャーチルが「戦争が大好き」だったからである。
チャーチルの持つ、他の人にはない「個性」が、彼をもう一度、世に送り出すという「奇跡」を生んだのである。
まさに、ナチスの台頭が、彼を呼び寄せたと言ってもいいのかもしれない。

元々、ナチスドイツには、海峡を越えてまで「英国」を攻める目論見はなかったとも言われている。
ヒトラーの思惑は、ヨーロッパ大陸の併合であり、英仏に続く世界へのドイツ帝国の版図の拡大である。
だが、戦うことをこよなく愛するチャーチルは、なんと、自ら第二次大戦への参戦に声をあげたのである。
再び海軍相として入閣したチャーチルは、翌1940年に首相に就任し、挙国体制を整えてナチスドイツ軍との戦いの陣頭指揮をとる。
「我が天職を得たり」とはこのことだ。

とにかく面白いのは、チャーチルが抜擢された理由なのだ。
「誰なら屈服せずに戦うか!?」を考えたとき、「チャーチルだ!」という声が議会で大いに上がったという。
ナチスドイツは、一気に国境を越え、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを無抵抗のまま手にし、
フランスさえ、たったの4日間でパリを陥落させる勢いだ。(仏国はなぜ「戦勝国」なのだろうか…)
だが首相となったチャーチルは「英国だけが残っても戦い抜く」と言って憚らず、自らは嬉々として戦略を立てる毎日だった。

国民総力戦が必須であることは、先の第一次大戦のときの最も重要な教訓だった。
チャーチルは、国民の生活の一部となったラジオ、そして議会演説を通じて、欧州を震撼させるファシズム打倒をスローガンに、
熱弁をふるって大衆に戦争協力を呼びかけた。彼が元々持っていた、あの文才が弁舌をも呼び起こしたのである。
チャーチルは、ヒトラーと並ぶ、民衆を扇動するに長けた「名演説家」でもあった。

そして、世に有名な「ヤルタ会談」から「終戦」へと向かう。
ヤルタでは、まだドイツも日本も無条件降伏をする前に、世界の3巨頭が集まり、戦後の世界の分配を決めたことは有名な話だ。
むろんチャーチルの画策によっての米国とソ連の参戦がなければ、第二次大戦はまだまだ長引いていただろうし、
もう無傷の航空機が1機もなかった英国は、事実、覇権を握ったかどうかも分からない。

だが、チャーチルは「どんな手を使ってでも勝つ」という信念を貫いたのである。
これが後の世に、彼をして「戦うことを決して止めなかった男、ウィンストン・チャーチル」と言わしめたのである。
チャーチルは、国民を鼓舞し、空襲の惨禍にまみれ、もう戦う最後の一隻、一機、一騎、一兵が尽きてからも、
「我々は最後の一人まで戦いぬく」といい続けろほどの男だった。

歴史に「もしも」はないが、もし、もしも、あのときに、英国首相にチャーチルが就任しなければ、
いったい世の中はどうなっていたのだろうと思う。
そしてくどいようだが、彼をその首相の席に座らせた一番な理由は、彼の「戦争が大好き」という「個性」だったのである。
なんと言う「天の配剤」だろうか。だが、それは正しかったのである。

「個性」とは誰が作るものなのだろうか。神だろうか。
むろん「個性」の原因には、親の遺伝子、育った環境や教育などもあるだろうが、
すでに1歳の子供にも「個性」は芽生え、3歳ともなると他人との「個性」の違いはもはや歴然である。
「個性」は、抑えたり伸ばしたりは可能なのかもしれないが、ハナから作り上げることなど不可能に近い。
連合軍の勝利は、ウィンストン・チャーチルの個性を「選択」したことにあるのではないだろうか。

私は、ビジネスの成功も「個性」によってもたらされると思っている。
ビジネスの現場とは、「個性」の入り乱れによって産まれているものだと私は思っている。
「曲がったことが嫌い」「1円合わないと気が済まない」「楽天家」「冒険好き」「機械が好き」「目立ちたがり」
などなど、まずは社員や部下の「個性」を、先に知るべきである。
それさえ知れば、学習や訓練、経験などは後でいい。「天の配剤」がまずはいの一番の人事戦略なのではないだろうか。

明治維新には、あの大久保利道の「非情なる清廉さ」という「個性」が絶対に必要だったのである。
巨人軍V9には、あの川上哲治の「滅私奉公こそ」という「個性」がなければ達成は覚束なかったはずだ。
ニュートリノの発見には、あの小柴昌俊の「あきらめない」という「個性」がノーベル賞を取らせたのだろう。
今のホンダには、あの本田宗一郎の純粋無垢に「車が大好き」という「個性」が未だに息づいているはずだ。

「個性」は、その人物がいる会社を、とんでもない会社に仕立てるかもしれない。
これを使わない手はないだろう。

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