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2018年08月号

vol. 137

100回目の夏

~夏の甲子園。今年で100回の記念大会を迎える。遠く50年後に思いを馳せた10歳の夏~

日本の夏の風物詩とも言える高校野球。夏の甲子園。
この大会が今年で100回目の節目を迎える。
ちょうど50年前の50回の記念大会に、10歳の私は甲子園の銀傘の下にいた。

私は「この世で一番の楽しみは何?」と聞かれたら、まず「高校野球」と答える。
作詞家の阿九悠ほどではないが、夏に家にいるときは100%、高校野球を見ている。
民放によくある「青春とは何だ」という青臭い演出は苦手で、私は私なりの熱量でもって高校野球を見ている。
それはまるで高校野球を、私の人生の風物詩として染み渡らせる作業のようなもので、全試合を見ても飽きないだろう。

今回はそんな私自身の高校野球への思いを書いてみたい。
まずは、50年前の50回記念大会の決勝戦の解説からをイントロとしよう。

1968年、私がまだ10歳で、小学5年生の夏、夏の甲子園の決勝戦を見に行った。
決勝戦は、初出場で初優勝を狙う大阪の「興国高校」と、当時、甲子園の常連だった「静岡商業」の一戦である。
興国の主戦投手は右のアンダーハンドの丸山。絶妙なコントロールが注目されていた。
そして静商は、背番号10の1年生エースで、その後、巨人にドラフト1位で指名される、あの新浦である。
そして静商の控えピッチャーとなったのは、背番号1をつけた、後に広島カープのエースとなる、あの池谷である。
野球ファンなら、たまらない名前がズラリと並ぶ対戦である。

勝利したのは興国高校。初出場で初優勝という金字塔だ。
内野ゴロの間にすくい取った、かけなしの1点を守りきった、緊迫の投手戦だった。
バックネット裏で見ていても、丸山の四隅ギリギリに決まる制球はホレボレとする投球だったし、
方や、上背のある新浦が投げ下ろす剛速球は、バックネットでも「シューッ」という風を切る音が聞こえたぐらいだった。
戦時中によく見られる丸縁のメガネの新浦は、とても1年生とは思えぬ堂々の投げっぷりだった。

さて、緊迫した試合中、両アルプスの声援に包まれる中で、私はフッとこんなことを思った。
「50回の記念大会か…。ならば、自分は100回の記念大会を見れるだろうか…」と。
今のような隆盛ではないにしろ、高校野球はさすがに続いているだろう。
だが今から50年後に、果たして自分は生きているのだろうか?と。

50年という長い月日の末、60歳になった自分は、いったいどんな初老の大人になっているのだろうか。
どこの大学に行き、どんな仕事をし、結婚相手は誰だろう、子供はいるのか、健康でいるのだろうか。
そんな事を、10歳の少年は、50年後の100回の記念大会に、遥かな思いを馳せながら想像をしていた。
目の前からはパーンというキャッチャーミットの音と、アルプスの大音声が聞こえている。

それから50年。気の遠くなるような50年。なんとか生きていたようだ。高校野球は50年前と何も変わっていない。
ラッキーゾーンがなくなり、芝が青々となり、文字盤が電工掲示となり、金属バットに変わったぐらいだ。
その50年の月日の中、毎年毎年、高校野球は繰り返されてきた。
それはまるで、止まらぬ山河の流れのように、言わば、誰も止めることなく繰り返されてきた夏の風物詩である。
私は気付かぬうちに、その風物詩と共に、50年という途方もない長い人生を生きてきたのである。

高校野球が、まるで山河の流れのように、揺ぎない夏の存在であることを、ひしひしと感じた想い出がある。
1つ目は、大学生のとき。徳島のマリンキャンプに参加した際、ロードハイキングで、
「椿泊(つばきどまり」という小さな漁村に足を踏み入れたときのことである。
時間帯は正午頃。路地には人っ子一人歩いていない。ネコだけがだるそうに寝そべっている。まるで無人島だ。
朝の早い時間に漁を済ませた後なのだ。その小さな漁村は気持ち悪いくらいに静寂の中にあった。

が、仲間達との談笑が途切れたとき、遠くにコンバットマーチが聞こえたのである。
TVで、高校野球をやっているのだ。気付けば、遠く後ろの方からもコンバットマーチが聞こえる。
人っ子一人いないはずのこんな裏錆びれた漁村で、人は家の中で昼寝でもしながら、TVは高校野球を映しているのだ。
無人島にさえ高校野球は存在していたのだ。高校野球だけは止まらぬ山河の流れなのだ。
私はそこに、確かに夏の動かし難い風景を感じたことを鮮明に覚えている。

もう1つは、信州乗鞍の山頂で、高校野球に、とんでもない存在感を感じさせられた一コマである。
夏の山は下界の天候とは打って変わり、山頂を目指すにつれ、気温は下がり、辺りは夜のように真っ暗になった。
ヒョウが降り始め、風は荒々しく、まるで嵐の中に入ってしまったようだ。
雨具は十分ではない。まだ小さかった娘は「怖い怖い」と言い出した。
山頂に向かう登山者たちは、不安に包まれ、ひたすら山頂の山小屋を目指し、恐怖の中にいた。

そうしてようやく、冷たい雨が嵐のように吹きまくる山道から、山頂の山小屋に辿りついた。
山小屋に入った瞬間、大勢のキャンパーが身を寄せるように、皆に安堵の笑顔があり、
我々家族も、ああ助かったと、抱き合わんばかりの喜びの中、そのとき、フッと食堂の奥にあるTV画面が目に入った。
そこには、なんとギラギラの晴天の下、コンバットマーチで揺れる高校野球が映っていたのである。
震え上がる寒さと夜のような山小屋に、TV画面だけが灼熱の甲子園を映していたのだ。信じられない別世界だった。

高校野球は、自分がどんな場所にいようと、それは動かしようのない山河の流れのように行なわれているのだ。
それはまるで、夏の夕立のように、夏に鳴くセミのように、それはまるでごくごく自然の風景のようにだ。
失恋をしようが、会社をクビになろうが、大事な人が死のうが、大病で入院をしようと、
高校野球はまるで何も知らぬように、当たり前に行なわれているのである。
そしてそれは私にとって、年輪を重ねた証ともなる風景なのである。

さて、少し話は逸れるが、私の大学時代の後輩に、大学の教授をしている男がいる。
彼の研究室は、古びた学舎棟の2階にあり、彼はその部屋に22年間、他の部屋に移ることなく居続けたそうだ。
窓から見える景色は、四季折々の変化があるだけで、22年間、何にも変わらない。
愉快な日もあれば、悲しい日もあれば、楽しい日もあれば、イライラした日もあっただろう。
だが、どんな日であろうが、彼の研究室から見える風景はいつも通りだ。
ただ、桜が咲き、蝉が泣き、銀杏が色付き、木枯らしに落葉が舞う四季が、22年間、繰り返すだけだった。

古びた学舎棟が取り壊すことが決まり、彼はピカピカの新しい学舎棟の2階に引っ越した。
窓から見える景色はむろん変わってしまったのだが、彼はこんなことを言った。
「いつもそこにあった風景が変わってしまった。母親の胎内の羊水から出された気分だ」と笑っていた。
なるほど。何の変哲もない窓の外の風景は、22年間をかけて、年輪を重ねる証ともなる風景になっていたようだ。

誰にでも、こんな自分の年輪を計る何かがあるのだろう。面白いのは、こんな人もいる。
大阪で生まれ育ち、結婚を機に埼玉に移り住んだ女性が、大阪の実家に帰る度、「吉本新喜劇」を見るそうだ。
土曜日のお昼、関西人なら誰でも見ていた「吉本新喜劇」は、50年以上も続いている。
「これを見たら、ああ大阪に戻ってきたんだな、と思う」と言う。
なるほど。彼女にとっての「吉本新喜劇」は、私にとっての「高校野球」と同じ存在なのだろう。

さあ、高校野球は今年で100回目の夏を迎える。
ただ、私はこれを青臭い青春とかで演出する趣味はない。
私にとってこの100回目は、今から50年前の「50年後を思う」の遠くを思った帰結点であり、
今からどんなことが起ころうと、私の命が途切れようと、
延々と続くことの証となった100回目に、悠久の「時」を見た記念碑のようなものである。
この100回を成し遂げたすべての人に感謝したい。

さあ、50年のときを超えて、夏の甲子園は、今年で100回目の夏を迎える。
今年もきっと暑い夏になるだろう。
コンバットマーチの響きが遠くに聞こえてくる。

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 社長 谷洋の独り言ブログ 日々是好日