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2016年12月号

vol. 117

公共のサイフは痛みを消す-という法則

~自分に課せられる科料が一旦でも公共の場所に集められたなら、その痛痒は不思議に和らいでしまう~

もしアナタが、とある寺院から、国宝の「阿弥陀如来像」の修繕費を出せと要求されたらどうだろう。
もちろん「NO」だ。「なんで私が」と言うに違いない。仏像に興味があろうと無かろうとだ。
だがもし、その費用が税金でまかなわれるならば、アナタはそれに何の痛痒も感じない。

日本では、アナタの払った税金で「阿弥陀如来像」の修繕が行われている。つまりアナタもいくばくかの修繕費を出していることになる。
人は直接に、その使い道を定められ、拠出を強いられたなら「NO」と言うはずなのに、
それが一旦、国庫という「公共のサイフ」に入ってしまえば、それがどんな用途に使われようとアナタは無関心でいられる。
これが「税金制度」の持つ不思議な人間心理である。

ならば、この人間心理を上手く使って、人の感じる痛痒や不満を和らげることはできないだろうか、と考えた人がいた。
今回は、この不思議な人間心理の「ビジネス活用」を紹介しよう。
まずは、ちょっと寄り道になるのだが「税金制度」について少しだけ解説をしてみたい。

税金(租税)の始まりは、社会的な動物である人間だけが持つシステムで、起源は紀元前にまで遡ると言う。
人類が、集落にて共同生活を始めた頃、「私は米を作るから、アナタは外敵の見張りをしてくれ」などという、
集団としての分業が進んだときに、それが労役交換という形だけでなく、貨幣という中間財(税金)でまかなおうとしたのが始まりだそうだ。
だがそこには「絶対条件」が存在したらしい。収める税金は、その僅かでも、必ず自分にとっての「得」に還元されることだ。
「自分に関係のない用途に、自分の払った税金は決して使ってくれるなよ」と言うルールだ。当然だろう。

だが近代、社会というくくりは「集落」から「村」へ、そして「市」から「県」や「国」へと大きくなり、
自分の拠出した税金が、果たして、自分の「得」に正しく還元されているのかどうか、もうそれを計ることなどできなくなってきたようだ。
そこで現代、為政者は、新しく「公共のモラル」という概念を作り、
「公共」に使われる税金は、すべての人がそれを是認し、その用途には皆が「寛容」あろうとする「道徳教育」が施されるようになった。
ときに為政者は、国民に見えないように、吸い上げた税金を不公正に、また不公平に使うこともあるワケだが、
国民は愚かにも、税金の使い道に「痛み」を感じなくなるよう、少なからずの「洗脳」を受けていると思ってもいいのかもしれない。

我々は「公共」という言葉に、非常に立場を弱くしてしまったようだ。
本来、この「税金制度」がもたらす「無痛痒」の心理効果に対し、我々はもっともっと「過敏症」であらねばならないのだが、
アナタの収めた税金が、一度でも国庫に入り、公共のモノになってしまった瞬間、もはやその血税は、自分のモノではなくなってしまうのだ。
そして、この「公共」という概念は、アナタの身近な出来事にも、多くの「無痛痒」をもたらしている。例えば…。

アナタが、大きな分譲のマンションに住んでいたとしよう。そして毎月の自治会費に、月額1万円を支払っていたとしよう。
そして、その1万円は、マンションのすべての住人から同額を集められていたとしよう。
そして、その集められた自治会費は、一旦「マンションの自治会費のサイフ」にプールされていたとしよう。
そして、そのプ-ルされた自治会費は、マンションの「公共の用途」に使われることがルールだったとしよう。

さて、ある年の夏、その自治会費が、マンションに住む子供たちの「花火大会」に使われたとしよう。
そして、アナタには子供がいなかったとしよう。
さあ、どうだろう。アナタは、その「子供の花火大会」という自治会費の使われ方に、不服を申し立てるだろうか。きっとNOだろう。
また、ある年の「敬老の日」に、マンションに住む「独居老人たち」に、1人3千円の「敬老祝い金」が配られても、
アナタはそれに、それほどの不満も、理不尽も感じないかもしれない。なぜだろうか。

これも「税金制度」と同様、「公共のサイフは痛みを消す」という心理が働いていることはお分かり頂けるだろう。
「道徳教育」を施された我々は、「公共」というオブラートに包まれたとき、非常にモノ分りの良い市民になってしまうのである。
ではこの「公共のオブラート」が剥がれてしまったら、いったいどうなるか。一度それを外してみよう。
寛容で、無関心で、無痛痒に振舞っていた我々は、突如として覚醒し、不満を露にするようになるのである。例えば…。

もし、同じく「敬老の日」に、アナタが、マンションの自治会長から、
「604号の1人住まいの山田さんに、アナタの3千円を、敬老祝い金として進呈して欲しい」と言われたらどうだろう。
アナタは、同じマンションに住んでいるとは言え、その老人に会ったこともなく、顔すらも知らない。
アナタは言うだろう。「なぜ私が、その見も知らぬその老人に、祝い金を出さなければならないのですか」と。
拠出する金額は3千円。先の例の自治会費と同じ額だ。
だが納得できない。まったく縁もゆかりもないその老人に、自分の大事な金を、1円でも渡したくないのは当たり前だろう。

不思議な人間心理である。
3千円が、一旦でも「マンション自治会費」という「公共のサイフ」に収められたなら、
その使い道が「子供の花火大会」だろうが「敬老の祝い金」であろうが、アナタはそれに、いささかも寛容であったはずなのに、
それが、たまたま直接に、その渡す相手を特定されただけで、アナタはそれに大きな違和感を感じるのだ。
どうだろう。いかに「公共のサイフ」が不思議な「無痛痒効果」を生み出しているか、お分かり頂けるだろう。

さて、ここからが本題である。
実は、この「公共のサイフ」を「ビジネス」で利用している人に出会ったのだ。その彼は、名マネージャーと尊敬されている御仁だった。
彼は「ビジネスにおいても、公共のサイフを使えば、負担を消せるのです」と言うのだ。
彼の優れたリーダーシップには、この「法則」がふんだんに仕組まれているそうだ。例えばこんなシーンだ。

アナタは、部下の誰かを「中東アラブ」に赴任させなければならない状況に迫られていたとしよう。
そしてマネージャーであるアナタは、すでに、A君をその任務に当てようと思っていたとしよう。
だがもし、それをダイレクトにA君に告げたとすれば、A君から不平や不満が出てくることは想像に難しくないだろう。
「危険なところには行きたくない」「赴任手当を増やして欲しい」「ならば会社を辞めます」などだ。

だがもし、先に部下全員を集め、まず、「誰かに中東アラブに赴任をしてもらわければならない」を公表し、
「まだ誰に行ってもらうかは決めてはいない。なぜなら、これはとても辛い任務だからだ」と全員に伝えたとしよう。
これで一旦、すべての部下に「負の可能性」を配ったことになる。これが「公共のサイフ」である。

そして後日、アナタは意を決したように、全員を集め「すまんが、A君、君に行ってもらう」と告げる。
このとき、皆はどよめき、安堵にため息をつくだろう。そしてA君はきっと青ざめるのだろう。
だが「公共のサイフ」に入れず、ダイレクトにA君を指名したときと比べれば、A君の痛痒感は、はるかに緩和されている。

A君は家に帰り妻に「オレが選ばれた」と告げる。妻は「なぜアナタなの?」「他の人は?」と詰め寄るだろう。
だがA君は言う。「オレも行きたくないさ。でも誰かが行かなきゃいけなんだ」と。
これが「道徳教育」から生まれた「公共の分担」という美しき効果である。これこそが「ビジネス版-公共のサイフ」の活用シーンである。

会社はチームで動いている。チームの中には色んな役割が存在する。ときには損な役割もあるはずだ。
それを「税金」と同様、一旦まず、その「損な役割」を「チームの公共のサイフ」に入れてやればいいのだ。
そして改めて、それを一人ひとりに割り振るのだ。
たったそれだけで、たったそれだけなのだが、不思議にも、個人の負担への痛痒は緩和されている。
なんとも面白い仕掛けではないか。

ノーベル賞を受賞したカーネマンの「プロスペクト理論」の中にこんな一文がある。
「損が起こる場所を遠くにすればするほど、その痛みはそのキョリに比例して麻痺をしていく」と。
まったくその通りだ。

現代人は皆、「公共」という言葉に「寛容」を示す「洗脳」を幼い頃から受けている。
これを利用すればいいのである。
これさえ知ってれば、どれだけ宗教に無関心な人間だろうと、その人間に「阿弥陀如来像の修繕費」を出させるのは難しくない。
この法則をビジネスで使わない手はないのだ。

さあもし、アナタが夫婦で共稼ぎをしているのなら、そしてアナタの方が収入が少ないのなら、サイフは別々であってはならない。
当然、夫婦で共有のサイフを使うべきである。
これでアナタは、大いに無駄遣いができるはずである。

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